初めて笑った瞬間。
寮の片付けで、空き缶に足を取られた日。
余命半年の五十三歳男性が、初めて声を出して笑ったのは、
病院でもデイサービスでもなく、会社の寮の一室だった。
誰も笑わない部屋
警備会社の寮。
男性が長年暮らしてきた部屋は、玄関を開けた瞬間にすべてが伝わる空気をしていた。
薄暗い照明。積み上がった段ボール。畳の上には、コンビニの弁当容器と空き缶が散らばっている。
ベッド代わりの布団はそのまま固まり、カーテンは片側だけ外れていた。
男性は申し訳なさそうに笑う…かと思ったが、表情は動かなかった。
声だけが、小さく沈んでいた。
「ここから始めましょか。」
まずは足の踏み場を作るところからだった。
ゴミ袋を広げ、空き缶とペットボトルと弁当の容器を分けていく。
「まあ…そうですね。仕事終わって、寝て、また仕事行っての繰り返しでしたから。」
生活というより、「生き延びるための作業場」。
部屋には、その痕跡だけが残っていた。
「ここから始めましょか。」
そう言って、岡本は缶の山の奥へと足を踏み入れた。
足を取られた瞬間
缶の入った袋を持ち上げようとした瞬間だった。
床に転がっていた一本の空き缶が、音もなく足の下に滑り込んだ。
「うわっ。」
次の瞬間、岡本の体はきれいに前のめりに倒れた。
手には缶の山。足元にはさらに缶。
ドサッ、ガチャガチャガチャ——。部屋中に、ありえない音が響いた。
そう心の中でツッコミを入れた岡本が顔を上げると、
目の前で男性が口元を押さえていた。
こぼれた笑い声
最初は、喉の奥で漏れるような小さな音だった。
それが少しずつ大きくなり、ついにはこらえきれなくなる。
男性が、笑っていた。
声を出して、肩を震わせて笑っていた。
「すみません…大丈夫ですか…
でも……めっちゃ、おもしろかったです…!」
余命半年と言われてからずっと、
硬く閉じていた表情がほどけていくのがわかった。
「誰かが派手にこけるのを見て笑う」という、どうでもいい日常の一コマが、ようやく戻ってきた。
生活を取り戻すということ
その日から、片づけのペースは少しだけ早くなった。
捨てるもの、残すものを一緒に選びながら、男性は時々、自分の昔話をするようになった。
警備の仕事を始めたきっかけ。
若い頃に好きだった音楽。
もう連絡が途絶えてしまった家族のこと。
部屋からゴミが減るたびに、話す言葉も増えていった。
そう言って、男性はまた少し笑った。
片づけとは、ただモノを捨てる作業ではない。
その人の「生活」と「感情」をもう一度並べ直す作業でもある。
余命半年の人生が「ただの患者」から「一人の生活者」に戻っていく合図だった。
空き缶で誰かが派手にこける——そんな小さな出来事が、
人の心をもう一度、こちら側に連れて戻してくれることがある。
WEB ART STORIES 編集室

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