ありがとう楽しかった 第4話

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初めての体調不良。深夜、自分から電話をかけてきた日。
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初めての体調不良。
深夜、自分から電話をかけてきた日。

余命半年の五十三歳男性が、初めて「しんどい」と声に出した夜がある。
それは、病院ではなく、会社の寮の一室で、訪問診療とともに「ここで最期までいく」と決めたあとのことだった。

少しずつ、日常が戻りかけていた頃

デイサービスに通い始めてしばらく経った頃、男性の表情は少しずつ変わってきていた。
体操のときに冗談を言うこともある。昼食のときに、「これ、うまいですね」と笑う日も出てきた。

寮の片付けも一段落し、
部屋には、前よりも「生活」の匂いが戻ってきていた。

「このまま…しばらく、ここでやっていけたらええですね。」

そうぽつりと言ったのは、ある帰りの車の中だった。
そのとき、誰もが少しだけ「もしかしたら」と思っていた。

その日の午後、いつもと違う顔色

変化が起きたのは、ある日の昼食後だった。
いつもなら冗談を言いながらゆっくり食べるのに、その日は箸が止まりがちだった。

「○○さん、今日はどうです?」
「……ちょっと、しんどいですね。息が上がる感じです。」

いつもの彼なら、「大丈夫」「いけます」としか言わない。
そこがすでに、いつもとは違っていた。

血圧、脈拍、体温。
数値だけを見れば、すぐにどうこうというほどではない。
それでも、顔色と息づかいが、嫌な予感を運んでいた。

「今日は、早めに横になりましょうか。」
そう声をかけて、その日は少し早めに送迎車に乗せた。

「今日は…ちょっとしんどいかもです。」

寮の前に着き、玄関まで付き添う。
靴を脱ぐ動作ひとつにも時間がかかる。

「今日は…ちょっとしんどいかもです。」

そう言って、男性は自分の部屋に戻っていった。
その背中を見送りながら、胸の中に小さな不安が残った。

訪問診療の先生には、すでに「ここで最期まで看取る」話をしている。
病院に戻る選択肢は、最初から二人の会話の中にはなかった。

「ここで最後までいく」——それは、覚悟のいる約束だった。

深夜、スマホが鳴る

その夜。
日付が変わる少し前、スマホが震えた。

画面には、男性の名前が表示されていた。

「こんな時間に、めずらしいな。」

そう思いながら通話ボタンを押すと、少し途切れ途切れの声が聞こえた。

「……あ、岡本さんですか……」
「はい、○○さん。どうしました?」
「ちょっと……息が苦しくて……どうしたらええですか……」

自分から電話をかけてくる。
それは、彼にとって「本当にしんどい」サインだった。

「今から行きます。そこで待っててください。」

迷う時間はなかった。

「今から行きます。そこで待っててください。」

訪問診療の先生に連絡を入れ、状況を伝える。
搬送という選択肢は、最初から取らないと決めてある。
ここで看取る。そのために、みんなで準備をしてきた。

電話の向こうで、先生は静かに言った。

「今すぐの搬送はせずに、まずはそばで様子を見てあげてください。
明日、こちらからも伺います。」

電話を切ってすぐ、夜の道を寮へ向かった。

静まり返った寮の部屋で

部屋のドアをノックすると、少し間があってから鍵の開く音がした。
カーテンは半分閉じられ、薄暗い照明が部屋を照らしている。

男性は布団の上に半分起き上がった状態で座っていた。
顔色は悪く、額には汗。呼吸は浅くて早い。

「すみません……こんな時間に……」
「ええんです。連絡してくれてよかったです。」

手に触れると、少し冷たい。
声をかけながら、体の向きを変え、呼吸がしやすい姿勢を一緒に探る。

水を一口。
背中をゆっくりさする。
呼吸のリズムが、少しずつ整っていく。

「俺、ここで死ぬんですよね。」

落ち着いてきた頃、男性は天井を見たまま、ぽつりと言った。

「……俺、ここで死ぬんですよね。」

それは質問ではなく、確認でもなく、
自分に言い聞かせるような言葉だった。

「うん。ここでええって言うたんは、○○さんやで。」
「……そうですね。病院戻るのは、もうしんどいですもんね。」

自分で選んだはずの道が、
いざ目の前に近づいてくると、急に現実味を帯びる。

しばらく沈黙が続いたあと、男性は少し声を震わせて言った。

「……正直言うと……俺、死ぬの、怖いです。」

それは、五十三年間、簡単には口にしてこなかった種類の弱音だった。

「怖くてええと思いますよ。
でも、そのときまで、俺ら横にいますから。」

そう返すと、男性は少しだけ目を閉じた。

「……岡本さんが来てくれるなら……大丈夫です。」

その「大丈夫」は、
病気が治るという意味ではない。
一人で終わらないという、小さな安心の「大丈夫」だった。

「ここで最期までいく」という約束は、
ただの方針ではなく、
「怖さを一人で抱えさせない」という約束でもある。
搬送しないと決めることは、医療を諦めることではない。
どこで、誰と、どんなふうに最後の時間を過ごすのか——
その選択を、一緒に引き受けるということだ。

深夜、自分から電話をかけてきた日。
あの日、五十三歳の男性は初めて、
「怖い」と「頼る」という二つの言葉を同時に口にした。

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